別れを告げるその日まで #3
入学式翌日。
どんよりと曇った空に、朝日がさす気配はない。
「やっと着いた……」
学校前の坂をようやく登り切った時、思わずそんな独り言が飛び出した。
通学路は坂道が多すぎる。運動不足な私はへとへとだ。
低気圧が近づいているのか、起きてこのかた鈍い頭痛が続いていた。
水たまりの残る駐輪場に自転車を停めながら、つきそうになったため息を慌てて引っ込める。
いけないいけない。
いつも笑顔で、知的に、明るく。
「おはようございます」
「ああ、おはようございます」
通りがかった職員ににこやかな挨拶をすると、やや面食らった後に嬉しげに応えてくれた。
7時40分の下駄箱は、ほとんど上履きで埋め尽くされている。
こんなに早く登校する物好きもいないらしい。
ふと気づいたさあさあという音に振り向くと、いつの間に雨が降り始めていた。
細い春雨が、乾きかけた地面に新しい跡をつけていく。
あと少し遅かったら降られていただろう。
早くきてしまったが、特にやることもない。本でも読もうかな。
新鮮なくせ陰鬱な気分を抱えて教室へ入ると、意外にもすでに先客がいた。
知らない子だ。
自席にうつむき、ノートを開いて一心不乱にペンを動かしている。
肩にかかるほどの髪のせいで顔はよく見えないが、どうやら私にも気づいていないようだ。
これは声をかけるべきか、かけないべきか。
迷っている間に、視線に気づいた彼女が顔を上げた。
くるりと丸い瞳が、わずかにおびえた色に染まる。
目に軽くかかった前髪。たれ気味の大きな目に、小ぶりな鼻と口。
大人しそうな、可愛い、女の子。
「……あ、おはよう」
ぎこちなく挨拶を投げかけ、ほとんど投げるようにして自席に荷物を置いた。
筆記音が止まった。
「何、書いてたの?」
私は意を決して口を開いた。だだっ広い空間に、声がまっすぐ通る。
「……えっと、絵」
細い声が、意外に早く返ってきた。
会話が成立したことに安堵し、私は半ば軽薄な口ぶりで
「見せてもらってもいい?」
と聞いた。
「うん」
聞くか聞かないかのうちに、私はそっと、彼女の手もとを覗き込む。
みずみずしく豊かな花びらとがく、あまりの「現実味」に一瞬息が詰まった。
細かい線とぼかした陰影で描かれていたのは、花瓶にさされた薔薇の花だった。
「すごい」
漏れ出た感嘆のつぶやきに、少女はやや微妙な顔ではにかんだ。
「あ……ありがとう」
「私ね、薔薇の花好きなの。この絵、本物みたい……いや、本物より綺麗かも」
笑うのが下手な子だな、とその笑顔を見ながら思った。
表情筋を使いあぐねたような顔で笑うのだ。
「私、古谷華蓮。あなたは?」
「渡辺ひな」
「ひなちゃんかあ。いいなあ、可愛い名前。私なんかほら、字面がごついの」
「そうかな……私は、綺麗だと思うな」
「そっか。ありがと……あ、いけない。日誌書くのすっかり忘れてた」
突然思い出して、私は慌ただしく自席に戻った。
0コメント